「都市におけるコミュニティづくり 挑戦の物語」
2010年10月17日(日)
ソンミサン・マウルのユ・チャンボクさん講演会が開催されました。
ユ・チャンボクさんは、15日に京都で、16日は大阪で講演を行い、東京に移動して講演を行うハードスケジュールでした。日本の人たちがソンミサンのことに強い関心を持っていることに驚いていました。
東京の会場には40名の参加者が集まり、まちづくりに取り組む人、社会的企業のスタッフ、学生・院生などの様々な年代の方がいらっしゃいました。参加者に共通しているのは、都市におけるコミュニティづくりに強い関心があることです。
日本でも、「無縁社会」という言葉が使われるなど、地域におけるつながりが大きな課題となっています。ソンミサンの話に何かヒントを見つけ出そうと真剣に聞きいる姿勢が印象的でした。
ソンミサン・マウル(マウルは町や村の意)は、ソウル市の中心部(麻浦区)の標高60mの小山をとりまく地域です。
94年、この地域に集団移住した30代の共稼ぎ夫婦25世帯は、幼稚園などの画一的な子育ての姿勢に疑問をもち、自分たちが良いと考える育児施設を共同でつくることを決め、共同育児施設「私たちの子供の家(ウリ・オリニ)」を設立します。
その取り組みは子ども成長や発達につれて生まれた新たな”必要”に応じて、学童保育やフリースクールなどに広がり、さらに食の安全のための生協(麻浦ドゥレ生協)の設立(2000年)につながっていきました。
子育て世代が自分たちに必要な事業を共同で作ることからつながりができましたが、彼らは地区の年齢の高い旧住民とのつながりが深かった訳ではありません。その転機となったのがソンミサン山に給水施設を作る再開発計画への反対運動「ソンミサンの闘い」でした。
ユさんの講演は「ソンミサンの闘い」の紹介から始まりました。
古くから住む住民にとって、山は子どもの時からの思い出の多い場所です。新住民にとっては、子どもが遊ぶのに良い場所です。地域の様々な人にとって共通の関心事である山を守ろうとすることで、世代を超えたつながりが生まれていったのです。そして、座り込みから、ソウル市の給水需要の資料の分析など様々な人が力を合せて、建設中止を勝ち取ることができたのです。
最初は苦労した共同育児の事業などの経験、地域活動を通してできたつながりを基盤とすることで、生活の中で必要なことを事業として進めようという機運が育まれ、それが新しい事業の立上げや成功につながり、さらにつながりが拡充していくという好循環が生まれました。
現在では、生協に3500名が参加し、カフェ、リサイクルショップ、市民劇場、ミニFM放送局など、新しい文化や開かれたコミュニケーションを支える多彩な施設や社会的企業(マウル企業)ができ、8割の住民が地域活動に参加していると言われ住みやすさで人気のまちになったのです。
このようなコミュニティづくりの話の中で、参加者のみなさんが特に関心を持ったのは、地域の人たちのコミュニケーションへの取り組みでした。
最初の共同育児施設で、25人のうち1人の子どもが卵アレルギーだとわかり、施設の食事をどうするか、問題となりました。この25世帯で協力していこうと始めたのだから、多数である24人のために卵を使い1人が我慢するのも、逆に1人のために卵を全面禁止にするのも、また24人と1人が別の食事にするのも違うのではないか。どうすべきか、時間をかけて議論を重ねていきました。最終的に、ある家族がインターネットで、アレルギーの子が食べても大丈夫な卵を見つけたのです。
地域活動が盛んになり、それぞれが忙しくなったため、互いの交流が減り、立場の違いから喧嘩になることも増えたこともありました。その時、住民たちが考えたのは、「遊びながら、コミュニケーションをしよう」ということです。地域に、いくつかの市民団体がお金を集めてビルを建てる際、市民団体に要求して、地下に舞台をつくってもらいました。そこで、色々なサークル活動を行うようにしたのです。中でも、住民たちが俳優となり、地域の生活や課題を演劇として演じる演劇サークル「干し大根」は人気を集めています。
ユさんは、まちづくりのため、まちのためといった義務感や使命感ではなく、まちに暮らす中で必要なこと、やりたいと思ったことをやってきたら、結果として、コミュニティやまちづくりができていたと話してくれました。
自分から動いてみる。だから、諦めない。
そのエネルギーの大切さが伝わる講演会でした。
ソンミサンの話には、日本各地のまちづくりでぶつかる課題や難しさが、たくさんあり、参加者の方からのアンケートで、多くのヒントを得たと回答をいただきました。
アンケート内容は、日本希望製作所のブログで紹介しています。